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遙かなるER(エマージェンシールーム)への道
(神庫原稿)       山口内科 山口 泰



 ある金曜日の午後、仕事中に家内から電話がかかってきました。「具合が悪いので、とにかく早く帰ってきてほしい。いや、早くでなくすぐに帰って来てください。」と。その日は時間に融通をつけることができたので、少し後かたづけをすませ3時過ぎに帰宅しました。開口一番、「おそい!」っと、咎められ、「下痢と嘔吐を繰り返していて、体がカチカチになり動かなくなって困っていたのよ。」と、クレームを言われました。なんだそんなことでと思いましたが、よく見ると両手がこわばって親指と人差し指がくっつく、いわゆる助産婦の手というテタニー特有の状態になっているではありませんか。胃酸を多量に失い、体がアルカリ性に傾いているためです。こんな典型的な症状を見るのは始めてで、診断学の教科書に載っているとおりだなと感心して眺めていましたが、現に目の前にいる家内は困っているのでこれは何とかしなくてはと思い、自分の加入している健康保険の契約書を出してきて、とりあえず保険会社の窓口に電話をしました。応対に出たオペレーターの女性は機械的な口調で「お名前と契約者番号をお知らせ下さい。」「471312の山口です。」「山口さんですね。あなたはパーフェクトヘルスプランプレミアムに加入していますが、間違いございませんね。」「はい。」「さて、今日はどうなさいましたか。」「家内が今日の昼から急にお腹を壊し、何度も吐き下痢もして脱水になっています。点滴をするなどの治療をして頂きたいのですが。」「当社と契約しているかかりつけのドクターはどなたでしょうか?」「いままでどこにもかかっていないのでわかりません。」「それでは、あなたのエリアでは○○先生がAショッピングセンター内に、××先生がBビジネスパークに、△△先生がCスクウェアーにオフィスを構えています。既に、診療時間を過ぎていると思いますが、まずは電話で予約を取ってから受診してください。」「わかりました。」そこで最寄りの診療所に電話をすると、留守電は冷酷にも「お電話有り難うございます。あいにく、本日の診療は終わりました、当院の診療時間は月曜日から金曜日の午前10時から12時、午後1時から3時です。予約の方は診療時間内に再度おかけ直し下さい。」っと。“今調子が悪いのにいったいどうなっているんだこの健康保険は、”と思い、もう一度保険会社に電話し、オペレーターに病院にかかりたい旨を伝えると、「当保険では、病院での診療は、かかりつけ医が必要と認めた場合のみ受診できることになっています。」と、すげない返事です。家内の状態はますます悪くなり口まで強ばって、喋るのもやっとな状態になってきました。「まずはかかりつけ医の予約を取ることから始めて下さい。」「予約はどのくらいかかるのですか?」「ドクターにもよりますが、一般におおよそ2−4週間後になると思います。」「でも、今具合が悪いのですよ。」「この規約は、お客様がご加入のパーフェクトヘスルプランプレミアムの契約書に明記されているはずです。」こんな押し問答が続き、いい加減頭に来て、「こんなに状態が悪いのに治療をしてもらえないのですが?お宅の保険会社は。」と、強く言うと、「やむを得ませんね。それでは当社のエマージェンシールーム(ER)を訪ねられたらいかがでしょうか?」「どこにあるのですかそれは?」「◎◎通り1314番です。」「行けばすぐ見て頂けるのでしょうか?」「もちろんですとも。」「………。」“そういうところが有るなら早く言えよ。”と、思いましたが、とりあえず「わかりました。有り難うございました。行ってみます。」と、伝えて切ろうとすると、「ご利用有り難うございました。Have a nice evening.」と。 地図でその会社の病院の在る位置を調べると、なんと30-40kmも離れているではありませんか。でも他に当てもなく行くしかありません。ふらつく家内を車に載せ、遙かなるERへと高速に乗りました。迷いながらも何とか40分ほどで病院の駐車場に着き、エマージェンシーと書かれた入り口にはいると、そこは50人近い人が不安げにたむろしていました。受付で「脱水がひどくすぐにでも点滴が必要だと思うのですが。」と、伝えると、「ERは予約のない方が順番に診察を受けるところなので、あなたの奥さんを先に診ることはできません。順番にお待ち下さい。あと、20番目です。」と。家内は言葉も出ず、待合いのソファーとトイレを頻回に往復しながら待つこと2時間、「山口さん」とアナウンスがありました。看護婦の▲▲です。診療はまだ先になりますが、まずは今の様子をお聞かせ下さい。そして先に血液検査をいたします。」と予診室に呼ばれ、採血をされました。そして、さらにもう1時間待つとまた呼ばれ、やっとドクターの診察です。先ほどの血液検査の結果を説明され、「急性の胃腸炎ですね。確かに脱水になっておりテタニーも起こしているので、リンゲル液を1000ml点滴します。そして、アトロピンの筋肉注射をしておきます。腹痛が続くようならアトロピンを処方しておきますので飲んで下さい。」と、診察はものの3分程度でした。おしりに注射をうたれた家内は、点滴が半分終わる10時過ぎには全身の強ばりがとれ、血色も良くなってきました。ホッとするとともに、“なんてひどい医療システムなんだこれは。日本ならとっくに自宅に帰って寝ているはずなのに。Nice eveningのわけないだろ!”と、怒りがこみ上げてきました。

これは、私がアメリカ滞在中に実際あった出来事です。HMOと呼ばれる保険会社が医療をコントロールするマネージドケアという医療システムの中での事です。そこでは、病院や診療所への受診が厳しく制限され、フリーアクセスに慣れた日本人の目からは、病院へ行くなと言われているように感じました。医学的な知識が有るとは思えないオペレーターが巾を利かし、電話をかけてくる保険契約者を入り口でブロックしているのです。エマージェンシールーム(ER)と言えば、テレビのドラマで若い医師や看護師が小気味よく立ち働いている場所だと思っていましたが、待合室の方から眺めるとそこは、保険に入っているのに簡単に医療を受けさせてもらえない保険加入者の不安と不満が満ち溢れた場所でした。エマージェンシーとは日本で言う救急ではなく、“予約を取らずに病院を受診すること”だったのです。当時カリフォルニア大学から毎月もらっていた私の給与明細書には、“あなたには医療保険、眼科保険、歯科保険を合わせて1ヶ月あたり500ドルも保険会社に払っています。”と、勿体ぶって書かれていました。当時1ドル150円くらいですから、「こんなに保険料が高いのに、なんだこの体たらくは。いったいアメリカの医療はどうなっているのか?」と、同僚の医師に尋ねたところ、「市場主義の名の下に医療が保険会社の手に委ねられてから、アメリカの医療はおかしくなった。社会保険としての日本の保険医療制度が羨ましい。」と、言われました。もちろん悪いことばかりではないでしょう。虫歯の治療に行った歯医者さんは、削って、治療し、型を取り、アマルガムを詰めるところまでその日のうちにやってやってくれました。これも日本では考えられません。2時間以上口を開けっ放しにしたので、顎がはずれそうになったのには参りましたが。

さて、現在日本の医療制度は変革期に入り、高齢化社会への対応など多くの問題を抱え、見直し時期に入っています。20年の歴史を経た、アメリカのマネージドケアも、ビジネス的には効率が良くとも患者側の立場では非効率で使いにくく無駄が多いため、不満が噴出しています。そのため、こちらも見直しの時期に入っています。ところがアメリカの保険会社などに市場を開放するためなのか、加入者の不満が高いマネージドケアを手本とした医療システムへと現内閣はハンドルを切ろうしています。中堅クラスの加入する私的医療保険がこの有様で、さらに保険の未加入者が20%にも登るという弱者切り捨て社会に日本は近づこうとしているのです。集められたアメリカの私的医療保険料は医療費として使われるだけでなく、保険会社役員への天文学的な役員報酬や株主の配当など間接費に大盤振る舞いされていることも有名で、本国では問題になっています。残念ながら日本の新聞やテレビもアメリカ医療の明るい部分ばかりにスポットを当て、暗い部分には口をつぐんで本当のことを伝えようとはしません。読者の皆様方には、日本の保健医療制度の優れた部分を再認識して頂き、ごく一部の華やかなアメリカの先端医療を褒め称える論調に惑わされず、本当に必要な改革とは何かを冷静にお考え頂きたいと思っています。